大隈内閣は
1915年、大隈内閣は山東半島におけるドイツ帝国の利権を継承することなどを盛り込んだ二十一か条の要求を袁世凱に提示した。この要求と引き換えに袁世凱は日本による中華帝国の承認を求めたとされている[31]。これを契機として、反袁勢力が立ち上がり、1902年に結ばれた日英同盟を理由に連合国側に立ってドイツ帝国に宣戦布告していた大日本帝国を排撃する傾向が次第に生まれていく。そこで民国は連合国側に立って第一次世界大戦に参戦し、大日本帝国の影響力の排除を試みようとした。しかし、1919年に行われたパリ講和会議で決まったヴェルサイユ条約は日本の山東省のおける利権の継承を認めたため、北京の大学生らが条約調印反対運動を起こした。それが全国に波及して五・四運動といわれる反帝国主義運動に発展した。
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北京政府打倒を目指していた革命家の孫文は1919年に広州で中国国民党を決起して[32]、張作霖ら中国東北部を割拠している北洋軍閥の征伐と反帝国主義運動に取り掛かることになる。一方、ロシア革命により成立したソビエト連邦の傘下にあったコミンテルンの革命援助によって陳独秀らは1921年に上海で中国共産党を結成する。コミンテルンの後ろ盾もあり、1924年に国民党は第一次国共合作で共産党を迎え入れ、外資系の工場でのストライキを通して反帝国主義運動を全国へ波及させ、孫文は神戸を訪れて大アジア主義講演も行った。国民党は広東省の広州で国民政府を立ち上げて、孫文が病死するという不幸を乗り越えて、1926年に北伐を開始する。